
忘れもしない、中学2年13歳の夏の終わり。テレビから安全地帯の「悲しみにさよなら」が聞こえ、「何だこの歌は!」と一瞬で心を奪われた。「ワインレッドの心は」小学6年くらいだったので、その世界観は子どもにはとても理解できなかったが、「悲しみにさよなら」は、明るく優しく、穏やかに何か未来を感じさせて包み込んでくれるような曲だった。
その年の暮れに出た「安全地帯Ⅳ」というアルバムは、生まれて初めて買ったCDで、もちろん今も大事に持っている。
それがきっかけで歌がすごく好きになり、高校生の頃のバンドブームに乗っかってBOφWYだZIGGYだとコピーをやりつつも、バンドメンバーに「俺のやりたい曲も入れてよ~!」なんて半ば駄々っ子のような駆け引きで安全地帯の曲を入れたりもしていた(笑)。

あれから33年。ライブでお見かけすることはあっても、当然遠い憧れの存在。
昨日はそんな方々、矢萩渉さんと武沢侑昴さんが自分のフィールドにやってきて下さった。
入り時間が近くなるに連れて知らず知らずに緊張し始め、ペンを持つ手がちょっと震えてもいた(笑)。

ラジオなので、放送を聴いて下さってる方が「へー!」と思うような話を聞き出さなくてはならないし、押さえておかないといけない情報事項もある。だから実は曲をかけている間のトークが、僕にとってはグッと踏み込んだ、ちょっとマニアックな質問ができる時間だった。
一番知りたかったのは、安全地帯の楽曲はどんな風に生まれて行ったのかということ。
単純に玉置さんが曲を持ってきて、星勝さんというアレンジャーが設計図を書いてメンバーが弾くという図式かと思っていたのだが、そういうことだけではなかった。
例えば、「ワインレッドの心」の歌詞が何回も書き直された話は有名だが、アレンジも相当なパターンをやったそうだ。キーを変える、テンポを変える云々。メロディーと歌詞ができてからが実に長いそうだ。
「1991年からの警告」という曲は、途中にあるマイナーコードが半音でスライドして落ちるところがある。楽器の人はそれは楽器のニュアンスとして捉えがちだが、玉置さんはそこに歌を乗せてしまう。
玉置さんは、どんなコード進行を持ってきてもメロディーを口ずさむし、逆に「そこもっと変なコードにして」みたいなリクエストもするそうだ。
メンバーお二人の口から、「あいつは天才だよ。ある意味変だよ!(笑)。」なんて言葉も出て来た。
一方で、生み出されたメロディーは松井五郎さんのところに送られ歌詞がつけられる。
五郎さんとは沢山曲を作らせていただく時間があったので、その凄さは身に染みているが、どうも昨日の話を聞いて想像を巡らすに、超天才の集まりが安全地帯の名曲を生み出して行ったんだと痛感した。

憧れにまた触れることができた日。
今日までとりあえずこの生き方を続けて来たご褒美とありがたく受け止めるとともに、それを知ってしまった自分はこれから何をすべきか。嬉しいことに試練と光の道はまだまだ自分の先に続いてるようだ。