ウルフムーンと呼ばれる鮮やかな満月のもと、昨夜は広谷順子さんのお通夜へ。
ご主人の木戸やすひろさんとのユニット「綺羅」では、日本の四季を、古典の世界にもその触手を伸ばして歌にされており、星や月が沢山出てきたので、ある意味順子さんらしい旅立ち前夜なのかなぁなどと思ったりもした。
一番最初にお会いしたのは、「Brand-new Winter」という楽曲のレコーディング。24年前、1996年の夏頃。いわゆる“ウーアーコーラス”というのの録音のために来てくださった。
ご主人の木戸さんと、樋山さんというコーラスミュージシャンの方との3人チームで、3人でマイクと譜面を囲み、打ち合わせもなくオケが流れてきたらパッと「ウー」「アー」と声を当てて、あっという間に完了。ただ1箇所音が濁る箇所があって、「私かなぁ〜」なんてニコニコしながらおっしゃったのだけれど、犯人は僕で、一人そんなプロ中のプロの皆さんの前でドキドキしながら歌い直した記憶がある。
それからしばらく会うことはなかったけれど、次に会ったのは2000年頃だったか。
共通の知り合いの方のお父様が亡くなられて、そのお葬式の席に木戸さんといらしていて、「ひょっとしてあの時のコーラスの…?」ということで声をおかけしたら、「あ、なんとなく覚えてる!」とおっしゃってくれた。
そう、80年代、90年代はコーラスミュージシャンの需要はものすごく高くて、1日に何件ものレコーディングをし、テレビやライブでのサポートもし、という状況だったから、売れてもいない僕のことなど忘れていても当然な状況だったのだ。
その後またしばらくして、僕の発声の師匠でもある桐ヶ谷仁さんのライブで再会。仁さんと順子さんは古くからのミュージシャン仲間。その頃僕はラジオの仕事も結構やるようになっていて、そこに木戸さんとのユニット「綺羅」で出演して下さってからグッと距離が縮んだお付き合いをさせていただくようになった。
自分のCDのレコーディングのコーラスをお願いしたり、プレゼンに出す曲の仮歌を歌ってもらったり、そして木戸さんがライブのコーラスに参加してくださるようになってからは、毎回「マネージャーです!」と称して来てくださった。
数年前にはご近所に引っ越してこられたこともあり、僕が魚を釣ってくると我が家や順子さんのお宅でお魚パーティーも頻繁にやったし、一緒にコストコに買い物に行ったり。すっかり近所に住む叔母のような、年上のいとこのような、姉のような存在になっていた。
ガンを発病したのは結構前だったと伺った記憶がある。10年くらい前にも一度大きな手術をされたけども乗り越え、定期的に検査を受けながらの闘病生活。その影響からか、後年は他にも病気を発症されたりしていたが、いつもニコニコと穏やかな笑顔で接してくれていた。
最後にお会いしたのは去年の11月。ハワイ旅行のお土産を持っていたときだったか。
残念なことに転移が進んでしまっていること、水素を吸うと体力的にも精神的にもすごくラクになるんだ、なんてお話をされて、そして「私が逝ったら木戸さんを川久保くん、頼みますよ!」なんて、冗談にはしたくないことを明るくおっしゃっていた。「バカなことを言わんでください!ちゃんと自分で世話して下さいよ!」と返したものの、あれは順子さんの精一杯のジョークだったのかとも思う。
おととしハワイに行ったとき、月と海との間に光の道が出来ているのを見た。
順子さんもハワイが大好きで、ほぼ毎年ホノルルマラソンの時期なんかに行かれていた。おそらくこの月の道も見たことだろう。
今日は告別式で荼毘にふされた。きっとあの月の道をたどって天国へと行き、鬼籍に入られた音楽仲間たちと再会している頃じゃなかろうか。
順子さん、今日まで本当にありがとうございました。
ただただ残念です。寂しいです。
順子さんの残した音楽のDNA、きちんと受け止めて行きます。
また魚を釣ったときは、木戸さんに必ず声かけますから安心して下さいね。
そしていつかまた、そちらの世界でお会いできるのを楽しみにしております。
どうぞ安らかに。